Hello Baby!:2月17日
静まりかえった部屋の何の変哲もない天井を眺めて、もうどれくらい経っただろうか。
視界が歪んで見えるのは決して気のせいなんかじゃないのだろう。「けほんけほん」という熱のこもった息が、やけにうるさく聞こえた。
「はぁ…気をつけてたつもりだったんだけどなぁ…。しかも何もこんな日に…風邪なんて引かなくたって…」
負けじと呟いてみた声は思うよりずっと頼りなげで、何だか更に辛くなってくる。思えば今朝、目が覚めた時からどこか調子が悪かった。
けれど、忙しいくせにとりわけ私のことに関しては心配性になる夫に余計な心配を掛けさせたくなくて、
無理矢理気のせいにしてみたら…これだ。
出勤するディアッカを見送って気が抜けた瞬間に一気に身体が重くなってしまった。仕舞いには壁つたいに辛うじて寝室まで辿り着き、
身につけていたエプロンも何もかも構わずにベッドに潜り込んだ始末。
「うー…ごめんね…」
言いながら布団の中で大きくなった自分のお腹を撫ぜる。妊婦は日頃の疲れや身体の冷えから風邪をこじらせやすい。
それを知っていたからこそ私も気をつけてはいたものの、最近の急激な冷え込んだ空気に一気にやられてしまったみたいで。
本来ならこういう時こそきとんと栄養のある食事を摂って、早く良くならなければならないというのに、この大きなお腹を抱えて
何かをする気が一向に起きず、どうしたものかと考えあぐねていた。お母さんかフレイ…もしくはサイに相談しようかと考えてはみるものの、
突然自分の都合で呼びつけるような真似をするなんて、何だか相手に悪くて気が進まなかった。
結局ディアッカが帰ってくるまでの長い時間を眠って過ごせば少しはマシになるかもしれないと、
布団を口元まで引っ張り上げて目を閉じようとした時、玄関の鍵がガチャリと音を鳴らしたのが聞こえた。
「!?」
セキュリティが完備されているマンションのディアッカと自分しか住んでいないこの一室に、しかもこんな真昼間から誰かが
訪ねて来ることさえ珍しいというのに、その鍵が開くなんてことはまずなかった。
夫のディアッカの…つまりザフトのデータを狙う誰かかもしれないとか、普通に泥棒が入ってくることなんかよりもよっぽど
有り得ることだけに、一気に不安と恐怖が押し寄せる。とっさに思いつくことは嫌なことばかりで、寝室の扉の向こうから聞こえる
ガタガタという物音に心臓が鳴り響く中、何とかして息を潜めて横になっていた身をゆっくりと起こす。
(…ど、どうしよう…)
ただ見つめるしか出来ない扉のドアノブが、僅かに動いた。
「!!」
咄嗟に身構えて、私の視線の先ではゆっくりと扉が開かれる。
「ミリィ…?」
「!!え、ディ…ディアッカ…!?」
そこからそろりと顔を覗かせたのは、予想だにしていなかった人物。
「な、何だ…ディアッカじゃないのよー…」
一気に緊張が解けて、小さく咳を洩らしながら再びシーツの波に身を沈める。
「おい、ミリィ…!?」
慌ててこっちに駆け寄ってきたディアッカは私の額にその大きな手の平を宛てて、…眉をひそめた。
「ったく…やっぱりな…。戻って来て正解だったぜ…」
言いながら、私が横になっているベッドの淵に腰掛けて、その手の平を私の頬へ滑らせた。
少しくすぐったいけれど、ついさっきまで外気に晒されていたその手の平はちょうどいいくらいに冷えていて心地いい。
「ディアッカ…。どう…して…」
「朝、ミリィの調子が悪そうだったから気になってて…、仕事なんて手につきそうもなかったから戻って来た。
でもこんなに熱が上がるんだったら、ずっといてやれば良かったな…」
そしてディアッカが本当に申し訳なさそうに「ごめん」と呟いたから、私も小さく首を振った。
平静を装ったつもりでも、いつだってディアッカには見破られてしまう。それは今回も同様で、朝の短い時間の間に
私の体調があまり良くないことくらい、ディアッカは簡単に気付いていたのだ。だからこうして…きっと忙しいに違いない仕事を
誰かに預けて家へと引き返してくれた。うっすら汗なんてかいちゃって、らしくなく慌ててたに違いないわ。
ホントに…この人をこんな風に出来るのが私だっていうのが未だに信じられない。それは恥ずかしいけれど、
でもやっぱり少し嬉しいと思う。ディアッカに…最愛の人に愛されているのだということが分かるから。
「ん…大丈夫。ごめんね、ディアッカ…」
尚も心配そうな顔をする彼を安心させるように、微笑んで言う。
それに応えるようにして、ディアッカも安堵の笑みをたたえて私の上に布団を掛け直しながら、とぼけたように答えた。
「んー?何のことー?」
「仕事…休んでくれたんでしょ?職場の人たちにも迷惑かけちゃって…。私が風邪なんか引いちゃったから…」
妻として、やっぱり彼の職場のことを考えずにはいられない。ただでさえ大変なイザークさんや部下の人たちに、ディアッカの分の大量の
仕事まで回ってくるのだから。それを察したのか、ディアッカは足元に置いた仕事用のアタッシュケースを軽く持ち上げて見せた。
「気にすんなよミリィ。ちゃんと家で出来る仕事を持って帰ってきたからさ…。たまには俺にもミリィを甘えさせろよな?」
「…ばか…」
私はいつだってディアッカに甘えているし、助けられている。そんなこと、この男はすぐに調子に乗るから滅多言ってやらないけれど。
「さ、ちゃんと着替えてしばらく休んでなミリィ…。何か上手いもん作って来るから…」
枕元の時計を見ればもうお昼の時間で、ディアッカは軍服の襟元を緩めながら部屋を後にした。
不思議と、ディアッカがいると思うだけで気持ちが落ち着いて、それどころか身体まで軽くなってきたような気がする。
とりあえず彼が置いていってくれた洗いたてのパジャマに袖を通して、私は再び布団にくるまりディアッカが戻って来るのを待った。
「…ご馳走様…です」
ベッドの上に座り、手を合わせる。
久し振りに食べたディアッカの手料理はやっぱり美味しくて、この男が大抵のことをソツなく、
…いや、並以上にこなす奴であることを思い知らされる。もう慣れたこととはいえ何となく悔しくて、私は不満げに唇を尖らせた。
「ん、食欲はあるみたいで良かった。後は妊婦のお前が薬を飲むわけにはいかないから、
あったかくしてぐっすり眠るくらいしかないけど…。あ、ミリィ…」
「え…?…っ!!」
不意に名前を呼ばれたかと思うと、突然ディアッカの顔が近づいてきて…信じられないことに私の唇の端に温かな感触。
ただでさえ温度の高い身体の熱が、沸騰するかと思うくらい急上昇していくのが自分でも感じる。
「あ…あんた…っ、なな何す…!!」
口元を両手で押さえて、ベッド横の椅子に座るディアッカをじっとり睨みつけてやった。
「だってミリィの唇にご飯粒付いてたし。可愛らしく唇尖らしてたし、つい」
「そういう問題じゃないでしょ…!?信じらんない…!!」
悪びれるわけでもなく、ディアッカは瓢々と言ってのける。ああ、そういえばこの男はこういう奴だったわ。
「くくく…っ。…そんだけ文句が言えたらきっと…大丈夫だな。ホントに後は寝るだけだ」
彼特有の喉を鳴らす笑い方をしたと思えば、唐突に優しく微笑んで私の頭を撫ぜる。
その仕草に私は結局、今度はまた別の意味で顔が熱くなる。
「………ばか…」
こうなるといつも私は照れくさくて、素直じゃないなんて分かってる反面で精一杯の悪態を吐くことしか出来ない。今更かもしれないけれど、
真っ赤になっているはずの顔を見られるのが嫌で、彼から顔を背けて慌てて布団に潜ろうとした。
「ミリアリア」
「!!」
そのあまりにも真剣な声色に思わず動きが止まった瞬間、褐色の腕が横から伸びてきて、私を捉えた。
そしてその広くて温かい胸の中に、すんなりと引き寄せられてしまう。
ディアッカの私に負けないくらいの熱い吐息が耳元に掛かり、そしてその息が震えているのに気が付く。
「…ディア…ッカ…?ちょ…、もう…いい加減にしないと…、風邪…う、移っちゃったら、どうするのよ…っ」
彼の震える吐息と、頬に伝わる激しく脈打つ心臓の音につられて、私の声もが震え出す。
ただ私を抱き締めるばかりで、何も言ってこないディアッカに不安を覚えて、もう一度名前を呼んだ。
「ねぇ…ディ、アッカ…?」
「…いっそ本当に、移っちまえばいいのに」
「え…?」
僅かに与えられた隙間の中で、ディアッカの表情を読み取ろうと首を動かす。そこから見えたのは、伏せた金色の睫毛。
「ただでさえミリィの身体が大変な状態なのに…風邪で苦しんでて…、俺は何も出来ないだなんて…耐えられるかよ」
「ディアッカ…」
「ミリィが風邪引いて、俺、こんな気持ちになるくらいなら…自分が風邪引くほうがよっぽどマシだって…」
その言葉を聞いて、はっとする。ディアッカを心配させないようにしたのが、返って彼を不安にさせていたのだ。
私にそんなつもりがなくともきっとディアッカは…私に頼られていないと…本当に思っていた。
そしてこの風邪のせいで何かと心配掛けたから、彼はもうすっかり私の誕生日のことなんて忘れているのだろうけど、
でもそんなのは関係ないくらい、いつだって感じることが出来る。
私は何て幸せなんだろうかと。私がどんなに想っても足りないんじゃないかってくらい、こんなにも想われている。
結婚したのがこの人で良かったと、胸の奥がトクンと熱くなった。
「ディアッカは、もう…充分に私にしてくれてるわよ…」
片手を伸ばして、彼の綺麗な、私の大好きな蜂蜜色の髪に触れる。
「…俺、が?なんで…?」
「だって…戻って来てくれたじゃない…」
「そんなのは…」
そう言うと、ディアッカはあまり納得していないような不満げな顔をした。“そんなのは当たり前”だって…?そんなわけないじゃない。
「何言ってんの。充分すぎるくらいだわ。だって…本当は誰にも任せられないくらいすごく大変で、大切な仕事をしているあんたが、
他の何よりも私を優先してくれたんじゃない。私…あんたが来てくれるまで、ほんとに身体がだるくて、何も出来なくて、
ね、でもほら…あんたが…ディアッカが帰って来てくれたから、後はもう…寝るだけでしょ?」
「ミリィ…」
折角の誕生日なのに身体はとても熱くてだるくて、頭もぼうっとしてて、でもディアッカを近くに感じた途端、
そんなのどうでもいいや…って、心は苦しくなくなったから。
「それにあんたに風邪なんて移せば、そっちの方が気が気じゃないわよ…?」
ね、だから大丈夫。そう言って笑えば、彼は何度か瞬きをした後、もう一度ぎゅっとその腕に力を込めて私を布団の上にゆっくりと寝かせた。
「分かった。でもミリアリア、せめて今日みたいな日は何でも言って、もっと甘えてくれて構わないからさ」
「ん、ありがと…。また何かあったら呼ぶし、もうディアッカも持ち帰った仕事してて大丈夫だから…」
大きな暖かい手が私の前髪を整えてくれる心地よい感覚に酔いしれる。離れてゆく手の平を名残惜しく思いながらも、布団の中から
指先だけを出して横に座るディアッカに手を振った。
なのにディアッカはただ微笑んでいるだけで、一向にその椅子から立ち上がる気配はなくて、私が振った手のやり場に段々困ってきた頃、
ディアッカの手が私の振る手を止めた。
「ミリィ、言っただろ…?」
「…え?…うん、だからもう…」
「せめて今日くらいは、何でも言えって。…分かってる?今日は…ミリアリアの誕生日だろ?」
目を丸くするって、まさにこういう状態のことを言うんだと思った。私はてっきりディアッカは今日が私の誕生日ということは忘れてて、
私の風邪のことを言っているのだと思っていたから。それに現にディアッカも、朝から誕生日については一切触れてこなかったんだもの。
「!!な、覚えて…!?」
「いやいやいや、俺がミリアリアの誕生日を忘れるわけないだろ…?そんな顔してるお前を前に、素直に行けないっての…」
ディアッカが苦笑を洩らす。紫の目は私の考えていることなんてお見通しなのだ。いつも私はディアッカには敵わない。
「本当はいつでも甘えて欲しいんだけどな。でもまぁ…折角の誕生日に、ちゃんと祝ってやることが出来ない今日くらいはさ。
だからミリィ…、言ってよ」
「…ディアッカ…」
私の右手に添えられていたままの彼の手を、そっと握り返す。
「じゃあ、…私が眠るまで…、手、繋いでて…?」
「ん、了解…」
「さて、と…仕事するか…」
口ぶりは軽くても、やはり熱で顔の赤いミリアリアの額に冷却ジェルのシートを貼って、ミリアリアが熟睡しているのを確認する。
普段のミリアリアは誰に対してもなかなか甘えを見せたり、わがままを言うことはない。
それに、自身の身をもって命を育んでくれる彼女の頑張りにも、本当に驚かされる。多分、俺にはそんなこと出来ない。
ミリアリアの、本当の意味での守る強さ…。今朝だってどんなに身体が辛くても、俺に心配を掛けさせないように振舞って、
俺のことを考えてくれていた。ミリアリアのそんな所にいつも俺が助けられているのもまた事実だ。だからこそ、時折こうして理由をつけては
彼女を思う存分休ませてやりたい、わがままを言わせてやりたいと思う。
「いつも有難うな。おやすみ…ミリアリア」
軽く伸びをして、彼女を起こさないように俺は寝室を出た。
「それから、誕生日……おめでとう」
――――Hello Baby…8ヶ月半の君へ
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長い!!!(叫)お…終わった…無事に(滝汗)。前回の、「次回はもっと余裕をもって」発言は完全無視ですな。
今回も例によって例の如くギリギリで書いたんですが、何がびっくりって途中までこれがミリ誕だということを忘れていた管理人(おま)。
いや、ミリ誕小説なのに、全然誕生日の気配がなくてびっくりしました(爆)。
何とか無理矢理ねじ込んだ誕生日設定。…ちゃんと読める代物になっていることを願いつつ、
一日早めにアップしてディアミリオンリーのため東京に旅立とうと思います。荷造りでさえギリギリ(笑えない)。
果たしてこんな状態で無事にディア誕がお祝い出来るのかは甚だ疑問ですが、とにもかくにも企画小説も残すところ
あと一つ。小説書くの苦手だけど最後まで立派にあがこうと思います(必死)。